地図と歴史から抹殺された村   谷中村                 戻る

 谷中村は1889年(明治22年)、下宮村、恵下野村、内野村の三村が合併してできた村で、栃木県の最南部に位置し、渡良瀬川、巴波河、思川にはさまれて洪水常襲地帯ではあった。反面洪水が肥沃な土壌をはこんでくれていた。

 谷中村の歴史は、古く室町時代(1407年)頃に、すでに開けた赤麻沼畔の豊かな村であった。その後古河藩によって開墾が奨められ画期的な発展を遂げた。谷中村は古来地味肥沃沃魚貝類の生息も多く自然に恵まれた穀類豊穣の平和な農村として繁栄を続けて来た。

 しかし、1877年(明治10年)頃から渡良瀬川上流の足尾銅山より流出する鉱毒により、農作物や魚に被害が見られるようになり、さらに1887年(明治20年)以降には足尾銅山の生産が増大すると共に、その被害は渡良瀬川流域の広範囲に及んだ。谷中村も例外でなく農作物の立ち枯れや魚の壊死など被害は想像を絶するものがあった。

 このため、栃木県出身の衆議院議員田中正造は被害状況を帝国議会で訴え、住民も東京へ上京請願し、1900年(明治33年)の川俣事件、翌1901年(明治34年)の田中正造の天皇への直訴で、鉱毒問題は人々の関心を引くこととなった。被害民の足尾銅山の操業停止要求に対し、政府は原因は洪水にあると判断し、洪水防止策として渡良瀬川の新川開削(藤岡大地を開削し渡良瀬川を赤麻沼に流下させる)と遊水池設置の政策を決定した。

 谷中村はその大半が遊水池となることにより、買収は1906年(明治39年)から着手され、同1906年7月(明治39年)谷中村は藤岡町に合併させられて法律的に村は抹殺され、事実上の廃村となった。
村役場跡、今は東屋があるだけ 落合家屋敷跡、落合姓の屋敷跡はこの他数件見かけた
 日本公害防止運動の原点とも言える谷中村跡は渡瀬遊水池の北側にあります。当時は富国強兵政策の真っ盛り、鉱毒を出さないようにするのが本当だという田中正造らの訴えをすり替えて遊水池にしてしまったのです。その後ミナマタ病、イタイイタイ病などの原因がわかるまで政府は企業よりの政策をとり続けてきている。

 今日(2002年7月20日)は非常に暑く、16時過ぎ到着するようにしたがまだ、暑くて歩くだけで汗が噴き出た。おまけに16:30には閉門のお知らせがあり、涼しくなるまでいることができない。ここを散策するのは秋冬が良いのだろう。(熊谷で36.7℃)
 
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